2011-3-11 を忘れない

希望に満ちた津波被災復興タウンが岩沼に誕生しました

先進的モデルとして各方面から注目されてきた岩沼市、玉浦西地区の復興タウンが完成しました。過酷な被災経験を乗り越えてきた住民の方々の実行力、復興の姿を描く源となった「以前の町」の豊かな暮らしや文化、住民の要望に開かれた行政の対応、専門家の方々のサポートなど、ここから学び他の地域でも生かしたいことがたくさんあるように思います。河北新報の関連記事から引用します。

◎岩沼・玉浦西のまちづくり(上)思い集めて

被災地の先頭を走ってきた岩沼市の集団移転事業で、新たに誕生した玉浦西地区。ゼロから出発し、一歩ずつ復興への階段、きざはしを上るようにまちづくりを進めてきた住民らの足跡を振り返る。(岩沼支局・成田浩二)

<豊かな自然再現>
住民主体の議論が、復興の歩みをリードした。
市が2012年6月に設置した「玉浦西地区まちづくり検討委員会」。13年11月の最終報告書提出まで、実に28回の会合を重ねた。
委員は沿岸部6地区の住民代表18人に学識経験者らを加えた23人。多様な意見を反映させようと、住民代表にはあえて女性と若者を入れた。住民のアンケートも行い、土地利用や景観、コミュニティーの在り方など広く意見を集めた。
ただ、話し合いは順調に進んだわけではない。市から設計を任されたコンサルタント会社の最初の土地利用案に住民は反発した。
「直線で仕切られた碁盤の目のような街並み。玉浦らしさはどこにも感じられなかった」。長谷釜地区代表で委員を務めた菊地幸一さん(66)は思い返す。
住民が思い描いていたのは、道路が曲線を描き、緑に囲まれた街並み。自然豊かな移転元の景観をできるだけ再生したいと考えた。「震災前の玉浦を見たことがあるのか」。コンサルタント会社に詰め寄る住民もいた。

<市には予算の壁>
市も必死だった。復興交付金は国民の税金。必要以上の金は掛けられず、工事を急ぐため複雑なデザインは避けたい。住民の望む植栽の量は、開発行為で定める緑化率を超えていた。
「住民の思いは痛いほど伝わった。しかし、法律や予算の壁があった。国や県と折衝し、ぎりぎり一致できるところを探った」。担当した市職員にとっても正念場だった。
住民の思いには伏線があった。住民たちは検討委が設置される半年以上前から、地元出身の石川幹子東大教授(現中央大教授)とワークショップを開き、新しいまちのイメージを膨らませていたからだ。
「難産」の末にできた新しいまちの通りには、緩やかな曲線がつけられている。住民のアイデアが随所に採用された。
「事前にまちづくりの勉強を重ねることで、自ら発言する被災者になっていた」と、サポートを続けてきた石川教授。専門家とともに、「発言する被災者」たちの思いが、新しいまちをつくる原動力となった。河北新報2015年07月20日

◎岩沼・玉浦西のまちづくり(下)結束を力に

<独自に課題解決>
「委員の思いが詰まった報告書ができた」。2013年11月、「玉浦西地区まちづくり検討委員会」委員長の阿留多伎真人尚絅学院大教授は最終報告書を岩沼市(宮城県)に提出し、総括した。
報告書は東日本大震災前のコミュニティーを重視し、集団移転先として当時造成中の玉浦西地区に、被災した沿岸部6地区ごとに住宅を配置。緩やかな曲線道路で公園、集会所などを結び、全体の交流が進むようにデザインした。生け垣などを統一して景観にも配慮する内容だった。
住民の思いが全て実現したわけではない。公園の芝生化や防風の屋敷林「居久根(いぐね)」を植える計画は、整備費や維持管理の面から見送られた。貞山堀を模した水辺を築く構想もあったが、緑道へと形を変えた。
「妥協すべきは妥協し、前に進むことを優先した」と、検討委員会の委員を務めた「玉浦西まちづくり住民協議会」会長の中川勝義さん(76)は振り返る。
住民は14年1月、独自に設立したまちづくり住民協議会で、積み残した課題を自分たちの手で解決する方法を探り始めた。
まずは公園の芝生化。土地に合う芝生の種類や管理に要する労力、経費などを慎重に議論し、試験的に公園の一部に植えた。住民が分担して水をやり、芝を刈ることで維持が可能と判断。近く、地区内全ての公園に芝を植えることを決めた。

<居久根再生図る>
地区の北側と西側の外周には、居久根の苗木約2000本を植えた。公益財団法人などが主催するコンペに応募した植栽計画が最上位に選ばれ、苗木購入の助成金(800万円)を得られたことが大きかった。
蔵王おろしの風を防ぐような立派な居久根に育つのは数十年先。年月をかけて伝統の景観を再生し、子や孫に玉浦の歴史と文化を伝えていく考えだ。
住民は定期的に集まり、公園や緑道などの除草を続ける。「玉浦には昔ながらの結(ゆい)の力がある」と二野倉町内会役員の斎健二さん(59)。集団移転で生活環境は大きく変わったが、共同体としての地域の結び付きは引き継がれ、まちを動かすエネルギーになっている。
地区内は高齢化率が高く、将来にわたって共同作業を続けていけるのか不安もある。「世代交代がうまく進むよう、若者が住んでみたいと思えるようなまちにする工夫が必要。しっかり道筋を付けたい」と中川さんは強調する。
復興の願いを乗せてスタートを切った玉浦西。住民は未来を見据えて歩み始めている。河北新報2015年07月21日

新たな歴史 玉浦西地区、きょう「まち開き」

2013年9月時点の玉浦西地区。造成後の地面がむき出しだった

田んぼの中に造成された集団移転先。待望の「まち開き」が19日にある=岩沼市の玉浦西地区

 田んぼを埋め立てた約20ヘクタールに整然と住宅が立ち並ぶ。海岸線から約3キロ内陸の田園地帯に、新しいまちが生まれた。19日に「まち開き」を行う。
岩沼市の玉浦西地区。東日本大震災で被災した沿岸部6地区(相野釜、藤曽根、二野倉、長谷釜、蒲崎、新浜)の集団移転先だ。
造成が始まったのは2012年8月。隣接する三軒茶屋西地区の一部を含め、宅地171区画、災害公営住宅210戸が整備された。約1000人が住む予定で、既に移住予定者の約9割が引っ越した。今月7日にはスーパーも開業した。
岩沼市は「復興のトップランナー」といわれ、住民参加で着実に再生の道を歩んできた。まち開きで、住民らは新天地での再出発を祝う。河北新報2015年07月19日

<玉浦西「まち開き」>教訓、感謝未来へ

震災以降の歩みが刻まれた記念碑が除幕され、玉浦西地区の出発を祝った

 岩沼市の集団移転先、玉浦西地区で19日にあった「まち開き」。4年4カ月の辛苦を共にした住民らは新天地での生活再開を喜び、共に未来へと歩んでいく決意を新たにした。
市民会館で開かれた式典で、菊地啓夫市長は「まち開きは『チーム岩沼』としてまい進してきた成果。大きな節目を共に祝い、喜びを分かち合いたい」と述べた。来賓の竹下亘復興相は「玉浦西の伝統を築き、次の世代に伝えていってほしい」と激励した。
玉浦西地区に今春完成した自宅で暮らす玉浦中3年の桜井未夢(みゆ)さん(15)は、避難生活で助け合いの精神を学んだこと、多くの支援を受けたことを発表。「高校受験生として、自分の部屋で勉強できるのがうれしくてたまらない」と感謝の意を表した。
玉浦西地区の一角では記念碑が除幕され、震災の教訓や感謝の心を未来に引き継いでいくことを誓い合った。公園では踊りや和太鼓の演奏などが披露されたほか、おにぎり、芋煮、ホタテなどが振る舞われ、住民と支援者が和やかに交流した。
「復興のトップランナー」といわれる同市の集団移転事業。2011年8月に震災復興計画を策定、同年11月に玉浦西地区を移転先に決定、13年12月に第1期の宅地を引き渡すなど、着実な歩みを重ねてきた。
移転先のまちづくりでは「玉浦西地区まちづくり検討委員会」を中心に積極的な議論が交わされた。コミュニティーを重視して震災前の6地区ごとに住宅を配置したほか、移転元の記憶を継承するため貞山堀をイメージした「貞山緑道」を築くなど工夫を凝らした。
相野釜地区代表で検討委員を務めた桜井よしみさん(68)は「孫子の代まで住んでよかったと思えるまちにするため、これからも住民同士、しっかり力を合わせていく」と話した。河北新報2015年07月20日

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コメント 1 件

ポエム より:

 岩沼市玉浦西地区の復興タウンの完成、ほんとうによかったですね。震災後、4年数か月の歳月をかけて、住民のみなさんが心一つにがんばってこられたこと、本当にすばらしいことです。住民自治のお手本を見るようです。行政は住民の要望にこたえて予算に限りのある中で最大限努力。住民はこれからももっといい町にしていくという話。やはり、最初、仮設住宅で生活が困難を極めている中でも、ここは自分たちが住み続けるところ、どうつくっていくか、という将来展望をしっかり見据えて、専門家の知恵も借りて、丁寧にすすめてこられたところがとてもよかったのだと思います。その過程では大変なご苦労があったことは想像に難くありません。完成した新しい玉浦西地区で再出発される住民のみなさんに心からのお祝いを申し上げます。

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